クラシック・インフォメーション
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1906年、当時ロシア帝国の首都だったサンクト・ペテルブルグに生まれる。
1919年ペテルブルク音楽院に入学。
1925年にその卒業作品として交響曲第1番を作曲し国際的に注目される。
1936年に歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』とバレエ『明るい小川』が、
ソヴィエト共産党機関紙『プラウダ』で批判されると(プラウダ批判)、
その後に作曲した『交響曲第5番』ではそれまでの作風から一転して、
共産党が音楽に求めた「社会主義リアリズム」、
「形式において民族的、内容において社会主義的」の線に沿った作品を創作した。
これによってショスタコーヴィチは批判から難を逃れた。
第2次世界大戦の影響で、多くの有能な作曲家がロシアを去ってアメリカへ亡命していく中、
ショスタコーヴィチはロシアに留まり作曲を続ける。
1941年にはレニングラードでの戦いに着想を得た交響曲第7番「レニングラード」を作曲する。
1948年、ソヴィエトの作曲家のほとんどが「形式主義者」として共産党により批判
(「ジダーノフ批判」)される。
ショスタコーヴィチはこの批判から逃れるためオラトリオ『森の歌』など
当局に迎合する作品を作り(スターリンの植林計画を賛美する内容)、名誉を回復した。
1953年スターリンが死ぬと、彼の代表作のひとつである交響曲第10番を発表したが、
曲の内容の暗さと「社会主義リアリズム」との関係において論争を巻き起こした。
交響曲第13番「バビ・ヤール」では共産党によりテクストとして用いた詩の書き換えを要求される。
ソヴィエト最高議会議員を務め、レーニン勲章叙勲、オックスフォード大学名誉博士号など、
国内外で数々の栄誉に輝く。
1958年頃から手足がしびれる奇病に悩まされ、晩年には心筋梗塞を患う。
この心筋梗塞によって1975年に亡くなる。墓はノヴォテヴィチ墓地にある。
生涯
生没年: 1906年9月25日 誕生
1975年8月 9日 没(享年68歳)
出身地: ロシア/サンクト・ペテルブルグ
Dmitrii Dmitrievich Shostakovich
| 主要作品一覧 | |
| <オペラ> | |
| ムツェンスクのマクベス夫人 | 1932年 |
| 鼻 | 1928年 |
| <交響曲> | |
| 交響曲第5番「革命」 | 1937年 |
| 交響曲第7番「レニングラード」 | 1941年 |
| 交響曲第13番「バビ・ヤール」 | 1962年 |