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シューマンは1810年、ドイツのツヴィッカウに生まれる。
5人兄弟の末っ子で、父は出版業者で、著作も行っていた。
シューマンは裕福な環境の中で、早くから音楽や文学に親しんでいた。
父は1826年に亡くなり、母の希望によって法学を学ぶことになり、1828年にライプツィヒ大学に入学した。
しかし、シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、1830年、20歳の時にピアニストになることを決心する。
シューマンは有名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークの内弟子となり、ピアノの練習に励んだ。
1831年には正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。
しかし、ピアノの指を訓練するための機械で指を痛め、たった2年でピアニストの道を諦めることとなる。
その後は音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をする。
評論家としては、1834年に『新音楽雑誌』を創刊、1836年には主筆となり、1844年にいたるまで務め、活発な活動を行った。
シューマンはまだ無名だったショパンやブラームスを「天才」として紹介しており、
彼の音楽ジャーナリストとしての才能は素晴らしかったと言える。
その後、ピアノの師匠であったヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。
ヴィークは激しい怒り、反対し、シューマンとクララの結婚を決して許さなかった。
そのような中で『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。
1839年2人はついに訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。
1840年、この年は歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』
などの名曲を次々と作曲した。この1840年は俗に「歌の年」と呼ばれている。
次ぐ1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番「春」や交響曲第4番の初稿が書かれている。
交響曲第1番「春」は、親友であったメンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、
大成功をおさめた。
1844年、ドレスデンに移住。この頃からやや精神に異常をきたしはじめる。
(うつ病、もしくは精神分裂症。はっきりとはわかっていない。)
1850年、デュッセルドルフの市音楽監督に招かれ移住。同年、交響曲第3番「ライン」を作曲。
しかし、1853年にはシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任する。
1854年2月27日、精神に異常をきたしていたシューマンは、発作的にボンのライン川に投身自殺を図った。
まもなく助けられたが、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容される。
その後回復しないまま1856年7月29日にこの世を去った。最後の言葉は、「分かるよ」であった。
この「分かるよ」とは、妻クララのことを認識していたという意味の「分かる」だったのか、
ブラームスとクララのまるで恋人同士のような関係のことを「分かる」といったのかは定かではない。
ちなみにクララはシューマンの死後は独身を貫いている。
生没年: 1810年6月 8日 誕生
1856年7月29日 没(享年46歳)
Robert Alexander Schumann
ロベルト・シューマン
| 主要作品一覧 |
| <交響曲> |
| 交響曲第1番「春」 |
1841年 |
| 交響曲第3番「ライン」 |
1850年 |
| <ピアノ> |
| 子供の情景 |
1838年 |
| 幻想曲 |
1836年 |
| アラベスク |
1839年 |
| <歌曲> |
| リーダークライス |
1840年 |
| 女の愛と生涯 |
1840年 |
| 詩人の恋 |
1840年 |