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シューベルトは600曲以上の歌曲を残したことから「ドイツ・リートの王(歌曲王)」と呼ばれている。
1797年、シューベルトはウィーン近郊のリヒテンタールで生まれた。
父であるフランツ・テオドールは教区の教師をしており、アマチュア音楽家もしていた。
シューベルトが5歳の時、父から教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。
この頃、父はシューベルトにヴァイオリンの初歩を、また兄イグナーツがピアノを教え始めた。
1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)に入学する。
ここでシューベルトは宮廷礼拝堂コーラス隊に17歳まで所属した。
ここでシューベルトはアントニオ・サリエリに学ぶ。
彼は在学中よりその才能を発揮し、数曲を作曲した。学校生活の最後には最初の交響曲を作曲した。
1813年の終りに、シューベルトは変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため、コンヴィクトを去る。
その後、父の学校に初級生のための教師として入職した。
この頃もサリエリから個人な指導を受けたいたが、
サリエリはハイドンやモーツアルトからの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。
1815年、交響曲第3番を完成し、ミサ曲第2番ト長調と第3番変ロ長調などの宗教音楽、数曲の室内楽曲、146曲の歌曲を作曲した。
これらの歌曲には、代表作の「野ばら」「魔王」も含まれていた。
1816年には、交響曲第4番ハ短調「悲劇的」と第5番変ロ長調、宗教音楽、
未完のオペラ「人質」、「さすらい人」をはじめ100曲あまりの歌曲を作曲した。このころに教師を辞し、作曲活動に専念するようになる。
1817年には、歌曲「ます」が書かれた。
また、シューベルトは友人に非常に恵まれ、身近な仲間たちで作られたサークル「シューベルティアーデ」の中心的存在であった。
1821年には「魔王」がアントニオ・ディアベリによって取次された後出版され、ある程度の評判をよぶ。
1822年には、交響曲第7番「未完成」を作曲した。また、同年にはウェーバー、ベートーヴェンと知り合っている。
さらにこの22年には娼婦に梅毒をうつされている。
1823年には、付随音楽「ロザムンデ」を書き、1824年には弦楽四重奏曲「死と乙女」を作曲した。1827年に歌曲集「冬の旅」を作曲。
1828年春、シューベルトに人生で初めて、ただ一度の彼自身の作品の演奏会の機会が与えられた。
1828年、11月19日、腸チフスのため31歳で兄のフェルディナントの家で死去。
死後間も無く小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトは、シューベルティアーデのための作曲家」とみなして、
出版することはなかった。
シューベルトは生涯貧乏で、また、生前に作品を公に発表する機会も与えられず、また容姿にも恵まれなく、
31歳という若さで亡くなった不遇の作曲家だったと言える。
生没年: 1797年 1月31日 誕生
1828年11月19日 没(享年31歳)
フランツ・シューベルト
| 主要作品一覧 |
| <交響曲> |
| 交響曲第7番「未完成」 |
1822年 |
| 交響曲第8番「グレイト」 |
1828年 |
| <管弦楽曲> |
| 付随音楽「ロザムンデ」 |
1823年 |
| <室内楽> |
弦楽四重奏曲第14番
「死と乙女」 |
1824年 |
| <歌曲> |
| 野ばら |
1815年 |
| 魔王 |
1815年 |
| ます |
1817年 |
| 冬の旅 |
1827年 |