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生涯

生没年: 1835年10月 9日 誕生
      1921年12月16日 没(享年86歳)

出身地: フランス/パリ

Charles Camille Saint-Saens
カミーユ・サン=サーンス
主要作品一覧
<オペラ>
サムソンとデリラ 1872年
<交響曲>
交響曲第3番「オルガン付」 1886年
<管弦楽曲>
交響詩「死の舞踏」 1874年
組曲「動物の謝肉祭」 1886年

彼はモーツァルトに次ぐ神童であった。二歳半からピアノを弾き始め、四歳の頃にはすでに作曲も行っている。
七歳の頃から、当時演奏家として、あるいは教育者として有名であった人々にピアノやオルガン、
作曲を師事するようになると、その神童ぶりはますます世間に広く知られるようになる。
そして10歳になった小さなピアニストは、サル・プレイエルにおいて、ついに公式デビューを果たす。
当時の音楽誌「ガゼット・ミュジカル」は、サン=サーンスのデビューを「モーツァルトの好敵手出現」と報じ、
後にフランスを代表する音楽家に成長するだろうこの少年を称賛している。

13歳になった1848年の秋、サン=サーンスはパリ音楽院に入学する。
サン=サーンスは1852年(16歳)にローマ大賞に挑むものの、落選してしまう。ちなみに12年後にも、
挑戦しているが落選。結局サン=サーンスは、ローマ大賞を獲得することができなかった。
しかし最初のローマ賞を失敗した年に、パリの聖セシル協会の主催するコンクールで
『聖チェチリアへの頌歌』(1852) が第1等賞を獲得している。

音楽院を卒業したサン=サーンスは1853年、サン=メリ教会のオルガニストとなる。
1858年、サン=サーンスはサン=メリ教会を去ると同時に、マドレーヌ聖堂の首席オルガニストの職に就く。
当時この教会のオルガニストといえば、オルガン奏者としてパリで最も権威のある地位と考えられていた。

1861年の春、サン=サーンスは古典宗教音楽学校よりピアノ教師に招聘される。ここでフォーレと出会う。
1871年、サン=サーンスはフォーレらと共に「国民音楽協会」を創設した。
この協会によってドビュッシー、デュカス、ラヴェルらの作品が初演されている。

サン=サーンスは晩年、ドビュッシーやストラヴィンスキーへの無理解と反発を公言して憚らなかったため
、死後保守的かつ反動的な伝統主義者として、長いこと不当に認知されてきた。
また強烈なワグネリアンであったことも、フランス国民のサン=サーンスに対する偏見の目を強めたともいえる。

1921年12月16日、サン=サーンスは滞在していたアルジェ市内のオアシス・ホテルで肺炎のため息を引き取る。
「時が来た、そう思ったときが本当の最期だ。」それが最後の言葉であった。
マドレーヌ教会で国葬が行われ、遺骸はモンパルナス墓地に埋葬された。


*上記一部文章は、『サン=サーンスの墓』様のホームページを参照しております。併せてご覧下さい。
http://homepage3.nifty.com/eugenio/saint-saens/index.html

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