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ラフマニノフは1873年、オネーグの裕福な家庭に生まれた。彼は生まれつき非常に手が大きく、
それはマルファン症候群という疾患のためだったと言われている。
そんなこともあり、ピアノに向いていたことから、5歳の時に母から最初のピアノのレッスンを受けた。
9歳の時に家は没落し、オネーグの所領は競売にかけられ、ラフマニノフはペテルブルクに移り、
ペテルブルグ音楽院へ入学した。ペテルブルグ音楽院では、熱心に学ばなかったラフマニノフだが、
12歳の時、ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティに見いだされ、モスクワ音楽院へと転校する。
モスクワ音楽院では、アレクサンドル・スクリャービンと同級生であった。
18歳(1891年)の時にモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダル(首席)を得て卒業した。
同年ピアノ協奏曲第1番を完成。 1892年には同院作曲科を卒業。歌劇『アレコ』を書き上げ、金メダルを受賞。
1897年、ラフマニノフの最初の交響曲第1番は初演されたが、批評家に痛烈な批判を受ける。
この失敗により、ラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となってしまった。
この後、作曲もほとんど出来なくなってしまった。
そんな折、ラフマニノフに決定的な影響を与えたのは、精神科医ニコライ・ダーリとの出会いであった。
彼に心理療法を受けることによってラフマニノフは徐々に自信を取り戻していった。
ダーリは、ラフマニノフに「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法を行い、
それは『ピアノ協奏曲第2番』(1901年)として形となった。ラフマニノフはこの曲をダーリに捧げた。
この曲は作曲者自身の独奏により初演され、成功した。
『ピアノ協奏曲第2番』は作曲家としての名声を確立し、ラフマニノフは皆に尊敬される作曲家であり、
ピアニストとなった。この後、1907年には『交響曲第2番』を作曲する。
1917年、母国で起こったロシア革命を逃れて、1918年にアメリカへと移住。
アメリカでは生計のために演奏活動を積極的に行うようになった。
ちなみに、アメリカでは、ピアノ制作者のスタインウェイと親交を深めている。
1931年、スイスに別荘を建て、ヨーロッパとアメリカ合衆国を行き来しながら演奏活動を続ける。
1934年には『パガニーニの主題による狂詩曲』などを作曲し、自身も死の直前まで演奏活動を精力的に行った。
1943年、ビバリーヒルズ(カリフォルニア州)で癌のため死去し、
ニューヨーク市近郊のヴァルハラのロシア人墓地に埋葬された。
生涯
生没年: 1873年4月 1日 誕生
1943年3月28日 没(享年69歳)
出身地: ロシア/セミョノヴォ(ノヴゴロド)
Sergey Vasilievich Rakhmaninov
| 主要作品一覧 | |
| <交響曲> | |
| 交響曲第2番 | 1907年 |
| <協奏曲> | |
| ピアノ協奏曲第2番 | 1901年 |
| <管弦楽曲> | |
| パガニーニの主題による狂詩曲 | 1934年 |
| <歌曲> | |
| ヴォカリーズ | 1915年 |