クラシック・インフォメーション
クラシック・インフォメーション
Copyright(C)2006 クラシック・インフォメーション All Right Reserved.
7F
6F
5F
4F
3F
2F
1F
TOP
Sponsored by Amazon.co.jp
Sponsored by iTunes
8F

1F

006
プロコフィエフは1891年4月23日、当時ロシア帝国領(現ウクライナ)のソンツォフカに生まれた。
5歳の頃初めて作曲をしたとされている。ピアノと作曲の勉強は幼少の頃から行われていたと思われる。
1904年、13歳の時にペテルブルク音楽院に入学。リャードフ(1855-1914)、ヴィンクレル(1865-1935)、
リムスキー=コルサコフらに学ぶ。
1909年には音楽院の作曲科の課程を修了。この後、同音楽院でピアノ、指揮を学ぶ。
1914年にピアノ科と指揮科を終了。この頃、ディアギレフ、ストラヴィンスキーら作曲家に出会う。
1917年には『交響曲第1番「古典」』を作曲する。
1918年、『交響曲第1番』の初演を果たした直後、プロコフィエフはロシア革命を逃れるため、
米への亡命を決意し、シベリアから日本経由でアメリカへと渡った。
1919年にはオペラ『3つのオレンジへの恋』を作曲。
アメリカやヨーロッパ各地で作曲家、指揮者、ピアニストととして活動するが、思うような評価が得られず、
1934年、ソビエトでの帰国永住を決め、ソビエトに戻る。
ソビエトに戻ってからは当時ソビエトの「具体的素材による平明単純な音楽を大衆に伝える」という
「社会主義リアリズム」の影響からか『ピーターと狼』や『子供の音楽』など子供のための作品を多く作曲している。
また、この頃にはバレエ『ロメオとジュリエット』、『シンデレラ』なども作曲している。
1946年、病気を患っていたプロコフィエフは症状が重くなったため、ニコーリナに移る。
この年、『交響曲第5番』、『ピアノ・ソナタ第8番』、『イワン雷帝』第1部、バレエ『シンデレラ』にスターリン賞が贈られる。
1947年には『ヴァイオリン・ソナタ第1番』に同賞が贈られる。
1948年、プロコフィエフはショスタコーヴィチらと共に批判の対象となる。
1949年には病状が悪化、また友人の度重なる訃報を知り、精神的にも多大なショックを受ける。
1952年、最後の交響曲である『交響曲第7番「青春」』を完成。
1953年、3月5日午後6時、突然脳出血による呼吸困難に陥り死去。
3月7日、モスクワ作曲家中央会館にて葬儀。
ちなみに、プロコフィエフの死はスターリンの死と同じ日であった。
生涯
生没年: 1891年4月23日 誕生
1953年3月 5日 没(享年62歳)
出身地: ロシア/ソンツォフカ
| 主要作品一覧 | |
| <交響曲> | |
| 交響曲第1番「古典」 | 1917年 |
| 交響曲第7番「青春」 | 1952年 |
| <管弦楽曲> | |
| ピーターと狼 | 1936年 |
| <オペラ> | |
| 3つのオレンジへの恋 | 1919年 |
| <バレエ> | |
| ロメオとジュリエット | 1936年 |
| シンデレラ | 1944年 |