Copyright(C)2006 クラシック・インフォメーション All Right Reserved.
Sponsored by Amazon.co.jp






言わずと知れた大天才作曲家、モーツァルトは1756年、ザルツブルクに生まれる。
父はザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト、
母はアンナ・マリーア・ペルトル、姉はマリーア・アンナである。
父レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時からモーツァルトに音楽教育を与えた。
3歳からクラヴィーアを弾き始め、5歳の時には最初の作曲をしている。(『アンダンテ
ハ長調 K.1a』)
モーツァルトは父とともに音楽家としてザルツブルクの大司教ヒエロニュムス・コロレドの宮廷に仕えた。
また、6歳の頃からウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行っている。
これは、神童であるモーツァルトの演奏を披露したり、
よりよい就職先(宮廷音楽家)を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。
これはモーツァルトの才能が否定されたわけではなく、当時の貴族社会が衰退期に入っており、
それに変わるブルジョワジーのパトロンもまた、
音楽社会に貢献するほどの権力を持っていなかったことが大きな要因とされている。
この演奏旅行中もモーツァルトは数々の神童ぶりをみせている。
1769年〜1771年のイタリア旅行の際には、システィーナ礼拝堂で門外不出の秘曲とされていた、
ドメニコ・アレグリの9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したという逸話が残されている。
また、旅行を多くしていたモーツァルトは手紙で家族や恋人とやりとりを数多くしているため、
その書簡がたくさん残っている。その中で、彼は非常に冗談の上手いユーモラスな青年であったと共に、
強烈なスカトロジーの傾向があったことも確認されている。
1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルグの大司教コロレドと衝突、ザルツブルグを出て、ウィーンに定住する。
1782年にコンスタンツェ・ヴェーバー(Constanze Weber, 1762年-1842年)と結婚。
コンスタンツェはカール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉である。
1784年にはフリーメイソンに入会したとされている。
ウィーンではフリーの音楽家として、演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。
ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。1787年以降は、ヨーゼフ2世から「宮廷作曲家」の称号を与えられ年俸を受けたが、
死ぬまで公的な地位には就けなかった。
なお、ウィーンに移ってからの10年間で、モーツァルトの主要作品はほとんど作られた。
1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に突然病床に伏し、わずか2週間後に35歳の若さで没した。
モーツァルトの死因には数々の説がある。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。
実際の死因は「リューマチ熱」であったと考えられている。
また、モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。
ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行し、サリエリは亡くなるまでこの噂に悩まされるのである。
モーツァルトの葬式に参列する者は一人もおらず、さみしくウィーン郊外の共同墓地に葬られた。
今では、彼が共同墓地のどこに眠っているかは誰もわからない。
生没年: 1756年 1月27日 誕生
1791年12月 5日 没(享年35歳)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
| 主要作品一覧 |
| <オペラ> |
| フィガロの結婚 |
1786年 |
| ドン・ジョバンニ |
1790年 |
| 魔笛 |
1791年 |
| <交響曲> |
| 交響曲第25番 |
1773年 |
| 交響曲第35番「ハフナー」 |
1782年 |
| 交響曲第39番 |
1788年 |
| 交響曲第40番 |
1788年 |
| 交響曲第41番「ジュピター」 |
1788年 |
| <セレナード> |
| アイネ・クライネ・ナハトムジーク |
1787年 |
| <協奏曲> |
| ピアノ協奏曲第20番 |
1785年 |
| <室内楽曲> |
クラリネット五重奏曲
「シュタードラ−」 |
1789年 |
| <ピアノ> |
| ピアノ・ソナタ第11番 |
1783年 |
| <宗教曲> |
| レクイエム |
1791年 |