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1809年2月3日、裕福な銀行家の父アブラハムと、母レアの間に生まれた。
祖父モーゼス・メンデルスゾーンは、有名なユダヤ人の哲学者であった。
姉のファニーと共に幼い頃からピアノ、作曲のレッスンを受け、早くから恵まれた才能を発揮し、周囲を驚かせてきた。

また、彼は音楽的な才能だけでなく、詩や絵画の才能もずば抜けていたという。
言語もドイツ語のみならず、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語までも話していたという。
そして、音楽の分野でも、10代の頃には序曲『真夏の夜の夢』をすでに作曲しているという、まさに天才であった。

20代前半はベルリンやデュッセルドルフで指揮者や音楽監督を務めたが、なかなか良い仕事には就けなかった。
原因としては、メンデルスゾーンがユダヤ人であることが挙げられる。

26才の時、音楽的に重要な都市といえるライプツィヒ市のゲヴァントハウス交響楽団の指揮者に就任した。
ライプツィヒではベルリンでは考えられないほど暖かくメンデルスゾーンを受け入れてくれ、
メンデルスゾーンはライプツィヒできわめて充実した活動を行うことができた。

この頃のメンデルスゾーンは様々な音楽史に残る活動をしている。
1つはそれまで曖昧だった「指揮者」を1つの職業として定着させたこと。
2点目は全く裕福でなかったオーケストラの演奏家の賃金をあげ、労働環境を改善し、
団員たちの地位の向上のために尽力したということである。
そして3点目は、それまで忘れさらえれていた大バッハの『マタイ受難曲』の再演を成功させたことである。

その後、彼はヨーロッパ中を演奏旅行し、また彼自身もたくさんの名曲を作曲していく。
1843年には自らライプチィヒ音楽院を開校し、院長に就任した。
彼の名声はヨーロッパ中に轟き、常にひっぱりだこであったが、次第にそんな生活に疲れを感じ始めてもいたようだ。

1847年5月、10度目の渡英後、疲労困憊でライプツィヒに帰る途中立ち寄ったフランクフルトでの二日目、
弟パウルから、姉ファニーの突然の死を知らせる手紙を受け取った。
ファニーはメンデルスゾーンが唯一心を通わせることのできる、通常の姉弟という関係以上だった。
そんなファニーを失い、メンデルスゾーンはすっかり気落ちしてしまった。

1847年10月、メンデルスゾーンは発作を起こし倒れた。その後、2度の発作を繰り返し、
ファニーが亡くなってから半年にも満たない、11月4日、家族や友人たちに見守られ、38才の生涯の幕を閉じた。

生涯

生没年: 1809年 2月3日 誕生
      1847年11月4日没(享年38歳)

出身地: ドイツ・ハンブルグ

Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy

フェリックス・メンデルスゾーン
主要作品一覧
<交響曲>
交響曲第3番「スコットランド」 1842年
交響曲第4番「イタリア」 1833年
交響曲第5番「宗教改革」 1830年
<管弦楽曲>
序曲「フィンガルの洞窟」 1830年
付随音楽「真夏の夜の夢」 1842年
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