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ハイドンは1732年にローラウ村に生まれる。
幼いころから音楽の才能を発揮し、6歳の時から親戚の家で音楽の勉強を始める。
1740年、ハイドンはウィーンに移り、聖シュテファン大聖堂で聖歌隊の一員となる。
ここでハイドンは9年間働いた。
1749年、ハイドンは、声変わりのため聖歌隊で高音部を歌えなくなり、聖歌隊を辞する。
その後友人の家に住み着き、フリーの音楽家としての活動を始めた。
この生活は10年間ほど続き、この間にハイドンは幅広い仕事に従事している。
このころから、ハイドンの評判が上がり始める。
1759年、ハイドンはボヘミアのカール・モルツィン伯の楽長に就いた。
ここで初めての交響曲を作曲している。その後、モルツィン伯が経済的に苦しい状況になり、ハイドンは解雇されてしまう。
1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長となる。1766年からは楽長に出世する。
ハイドンはエステルハージ家のお仕着せ召使いとして、58歳になるまで30年間仕えることになる。
ここでハイドンは作曲やオーケストラの運営、室内楽の演奏、据付のオペラ作品などの責任者となった。
エステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、
徐々に、ハイドンはエステルハージのためだけではなく、出版するためにも曲を書くようになった。
(この時期の重要な作品として、パリ交響曲(交響曲82番〜87番)、
十字架上のキリストの最後の7つの言葉といったものがあるが、これらは、外国からの委託により作曲されていたものである。)
1790年、エステルハージ家のニコラウス(ミクローシュ)侯爵が死去。
その後継者は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンもまた解雇されてしまった。
ハイドンはドイツで音楽関係の仕事で活躍する興行主ヨハン・ペーター・ザロモンからの
イギリスに渡って新しい交響曲を大きな管弦楽団で演奏する計画を受け入れ、イギリスへと渡る。
1791年から1792年、および1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めた。
聴衆はハイドンの協奏曲を聴きに集まり、ほどなくハイドンは富と名声を得た。
このイギリス訪問の間に、「ロンドン交響曲」と呼ばれる「驚愕」、「軍隊」、「ロンドン」などが作曲されている。
ハイドンはイギリスの市民権を得て移住することを考えていたが、ウィーンに帰ることにした。
ハイドンはウィーンに大邸宅を建て、合唱やオーケストラのための宗教的な作品の作曲にとりかかった。
このときに、オラトリオ「天地創造」と「四季」を作曲している。
1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になっていた。
晩年、ハイドンは使用人に看護してもらっていた。
1809年、ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻に伴って死去。
ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して混乱している使用人たちを、
なんとか落ち着かせて不安を拭い去ってあげようとするものであったという。
生没年: 1732年3月31日 誕生
1809年5月31日 没(享年77歳)
出身地: オーストリア
/ニーダーエースターライヒ州ローラウ
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
| 主要作品一覧 |
| <オラトリオ> |
| 天地創造 |
1798年 |
| 四季 |
1801年 |
| <交響曲> |
| 交響曲第94番「驚愕」 |
1791年 |
| 交響曲第100番「軍隊」 |
1794年 |
| 交響曲第101番「時計」 |
1794年 |
| 交響曲第104番「ロンドン」 |
1795年 |
| <室内楽曲> |
| 弦楽四重奏曲「ひばり」 |
1790年 |
| 弦楽四重奏曲「皇帝」 |
1797年 |