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1833年5月7日、北ドイツのハンブルクでブラームスはコントラバス奏者であった
父ヤーコプと母クリスティアーネの長男として生まれる。
最初の音楽の教育は父から習う。
10歳の時に 父親の主催した室内楽演奏会にピアニストとして初めて出演。
その後、ピアニストのマルクスゼンに師事。
また、レストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を補った。
完全主義者だったブラームスは、18歳の頃から、自己批判のため自分の気に入らない作品作品を破棄しはじめる。
現在19歳以前に作曲された曲は残っていない。
1853年にハンガリーのヴァイオリニスト・レメーニイと演奏旅行に行き、
この演奏旅行中に J. ヨアヒム、フランツ・リストとロベルト・シューマンと出会う。
シューマンは、「新しい道」と題された評論を発表してブラームスを熱烈に賞賛し、
聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。
ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララを知り、
1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。
1862年からウィーンに永住する。1863年にはウィーン・ジングアカデミーの指揮者に就任するも、翌年に辞任する。
ブラームスは以降、作曲に集中し始めた。1868年、『ドイツ・レクイエム』の大成功で著名な作曲家の一人として注目を集める。
1872年にはウィーン楽友協会芸術監督に就任。1875年まで務める。
1876年、ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて『交響曲第1番』は完成した。
自身納得をするまで世に出さないといったこの傑作は、
後に大指揮者のハンス・フォン・ビューローに「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。
1879年にはブレスラウ大学から名誉博士号を授与され、お礼に翌年『大学祝典序曲』を贈る。
ブラームスはバカンス好きでも知られ、バーデンやイタリアをしばしば訪れている。
ほとんどの曲はこのバカンス中に書かれている。
1889年、レオポルト勲章、ハンブルク名誉市民権を授与される。
1890年、思うように作曲が進まなくなり、作曲活動を辞めるといった意味合いの遺言書を書く。
(実際はこの後も数曲の名曲を残しているが、交響曲のような大曲は残していない。)
1896年より肝臓ガンを発症、療養生活に入る。
ブラームスは1897年4月3日、肝臓ガンによりウィーンで逝去し、中央墓地に埋葬された。
翌1897年3月26日頃より床を離れることができないほどの状況となり、
4月3日午前8時30分永眠。4月6日午後、盛大な葬儀の後、ウィーン中央墓地に埋葬される。
生没年: 1833年5月7日 誕生
1897年4月3日 没(享年64歳)
ヨハネス・ブラームス
| 主要作品一覧 |
| <交響曲> |
| 交響曲第1番 |
1876年 |
| 交響曲第2番 |
1877年 |
| 交響曲第3番 |
1883年 |
| 交響曲第4番 |
1885年 |
| <ピアノ> |
| ハンガリー舞曲1,2集 |
1869年 |
| ハンガリー舞曲3,4集 |
1880年 |
| <声楽曲> |
| ドイツ・レクイエム |
1868年 |