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バルトークは1881年、ハンガリーのナジセントミクローシュ
(現在のルーマニア/スンニコラウ・マレ)に生まれる。
父は農学校の校長で、バルトークは7歳の時に亡くなる。
その後、母によってピアノを学ぶ。ピアニストとして腕も卓越しており、ピアニストとしての初舞台は10歳の時であった。
1899年にブダペスト王立音楽院に入学。
1902年にリヒャルト・シュトラウスの《ツァラトゥストラはこう語った》に強烈な衝撃を受け、交響詩《コシュート》を作曲。
だが、この曲は1848年のハンガリー独立運動の英雄コシュートへの賛歌であった為、
初演に際してオーストリア人楽団員から演奏を拒否されてしまう。
1905年にパリのルビンシュタイン音楽コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場するが、
作曲部門は入賞できず、ピアノ部門では優勝者はヴィルヘルム・バックハウスでバルトークは2位であった。
その後、生涯の友となるコダーイ・ゾルターンと知り合い、共にハンガリー各地の農民音楽の採集を始める。
民族音楽の採集・研究は生涯を通じて行われることとなる。
この民族音楽の採集・研究が後のバルトークの音楽のハンガリー民族的な音楽の基礎となっていく。
1907年、ブダペスト音楽院ピアノ科教授となる。
1911年、オペラ《青ひげ公の城》を作曲。しかし演奏困難との理由から1918年まで初演されなかった。
また、当時バルトークは政府により政治的見解から台本の作家バラージュ・ベーラの名を伏せるように圧力をかけられていたが、
それを拒否。大変な失望をうけ、後2、3年、バルトークは作曲をせず、民謡の収集と整理に集中していた。
1914年、第一次世界大戦により民謡の収集が難しくなった為、再び作曲を始める。
1914年から16年にかけてバレエ《かかし王子》、1915年から17年には《弦楽四重奏曲第2番》を作曲。
この《かかし王子》によってある程度国際的な名声を得た。
引き続きバラージュの台本によるパントマイム《中国の不思議な役人》を作曲。
1923年、ブダペスト市政50年祭に政府から委嘱され《舞踏組曲》を作曲。この後、3年ほど演奏会活動に専念。
1936年、バーゼル室内管弦楽団を率いていたパウル・ザッハーの委嘱で弦楽器・打楽器・チェレスタの為の音楽を作曲。
1940年10月、第二次世界大戦の勃発の後、不本意ではあったがアメリカとへ移住する。
しかし、アメリカでは彼のピアニストとしての才能や、曲は全く評価されず、コロンビア大学で民俗音楽の研究に没頭する。
1943年、白血病のため入院。フリッツ・ライナーなどバルトークの友人の依頼で
当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーが、自らの財団と夫人の思い出のために作曲を依頼したところ、
《管弦楽のための協奏曲》を作曲。
1945年、ハンガリー解放とともに、帰国を促す知らせが来たが、すでにバルトークには海を渡る力はなく、
同年9月26日、ニューヨークのブルックリン病院で白血病で亡くなった。
遺体はハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬されたが、40年後の共産主義体制の崩壊後、
指揮者ゲオルグ・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、
国葬によりブダペストのファルカシュレーティ墓地に埋葬された。
生涯
生没年: 1881年3月25日 誕生
1945年9月26日 没(享年64歳)
出身地: ハンガリー/ナジセントミクローシュ
Bartok Bela Viktor Janos
| 主要作品一覧 | |
| <オペラ> | |
| 青ひげ公の城 | 1911年 |
| <バレエ> | |
| かかし王子 | 1916年 |
| 中国の不思議な役人 | 1919年 |
| <管弦楽曲> | |
| 舞踏組曲 | 1923年 |
| 弦楽器、打楽器と チェレスタのための音楽 |
1936年 |
| 管弦楽のための協奏曲 | 1943年 |
| <ピアノ> | |
| ルーマニア民族舞曲 | 1915年 |