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ヨハン・セバスティアン・バッハは、西洋音楽史上において重要な位置にある存在であり、
もっとも偉大な音楽家の一人である。「大バッハ」とも呼ばれている。
バッハ一族は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を生業とした大一族で、
2世紀半の間に約60人の音楽家を輩出している。
ドイツのアイゼナハ、エアフルト、アルンシュタットといった町では
「バッハ」と言えば音楽家の代名詞であった。
バッハはアイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロジウスの末子として生まれた。
バッハが10歳の時に父が死去し、兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励んだ。
1700年にリューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活した。
1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職、
その後まもなくアルンシュタットの新教会のオルガニストになった。
1707年、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストに招かれた。
同じ年、遠戚にあたるマリア・バルバラ・バッハと結婚した。
2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。
1708年、ヴァイマルに移って宮廷オルガニストとなった。
1714年には楽師長に昇進、一月に一曲のカンタータを作曲、上演した。
そのような背景があったため、バッハの作品はゆうに1000曲を超えている。
バッハは生涯ドイツを離れたことこそなかったが、大変に勤勉かつ勉強熱心で、
幅広い音楽を吸収した。クープランなどのフランス音楽、ヴィヴァルディなどのイタリア音楽、
南ドイツの音楽(フローベルガーやパッヘルベル)、北ドイツの音楽(ブクステフーデなど)、
パレストリーナに代表される「古様式」などを研究していた。
そういった様々な要素が、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つ
バッハ特有の音楽を創り出した。
1717年、ケーテンの宮廷楽長となり、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。
1720年、旅行中に妻が急死。翌年、宮廷歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴュルケンと再婚した。
彼女はバッハの作品の写譜などもしている。
有名な『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のために
バッハが贈った楽譜帳である。
アンナ・マグダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち(クリスティアンが最も有名であるが)、
バッハには成人した4人の息子があるが、彼らはみな音楽家として活躍した。
1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)に就任。
1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。
1749年頃から眼疾が悪化し、手術を受けたが、
テイラーという医者がヤブ医者だったため(ヘンデルも失明させている)、
予後が思わしくなく、病床に伏すようになり、1750年に65歳でこの世を去った。
生没年: 1685年3月21日 誕生
1750年7月28日 没(享年65歳)
ヨハン・セバスティアン・バッハ
| 主要作品一覧 |
| <管弦楽曲> |
| G線上のアリア |
1731年 |
| <協奏曲> |
| ブランデンブルグ協奏曲 |
1708年〜
1721年 |
| <室内楽曲> |
無伴奏ヴァイオリンのための
パルティータ第2番 |
1720年 |
| <鍵盤楽曲> |
| 平均律クラヴィーア曲集第1巻 |
1722年 |
| 平均律クラヴィーア曲集第2巻 |
1742年 |
| ゴルトベルグ変奏曲 |
1742年 |
| トッカータとフーガ |
1708年 |
| <受難曲> |
| マタイ受難曲 |
1729年 |
| ヨハネ受難曲 |
1723年 |
| <カンタータ> |
| 主よ、人の望みよ喜びよ |
1723年 |